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第5回 アマルフィ海岸自治体の持続可能性基礎調査 2016-6
A Survey on Sustainability of Costiera Amalfitana Comune

真冬のアマルフィ海岸を行く


聖三位一体ベネディクト会修道院3
ABBAZIA BENEDETTINA DELLA SS.TRINITA di Cava de' Tirreni

修道院詳細

    青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda
  2020年10月30日 独立系メディア E-wave Tokyo  無断転載禁

 2013~2016年アマルフィ海岸現地視察調査報告<256本 全体メニュー>

ベネディクト修道院1   ベネディクト修道院2   ベネディクト修道院3   ベネディクト修道院4
ベネディクト修道院5   ベネディクト修道院6   ベネディクト修道院7   ベネディクト修道院8
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ベネディクト修道院17   ベネディクト修道院18  ベネディクト修道院19   ベネディクト修道院20

    
アマルフィの位置     ベネディクト会  カーヴァ紋章  イタリア国旗

はじめに
 
 ここでは、2016年6月、「南イタリア・アマルフィ海岸自治体の持続可能性基礎調査」の一環として訪問したソレント半島の付け根に位置するカーヴァ市にある聖三位一体ベネディクト会修道院(ABBAZIA BENEDETTINA DELLA SS.TRINITA di Cava de' Tirreni)の英語版解説の翻訳を紹介します。翻訳は池田こみち。


ABBAZIA BENEDETTINA DELLA SS.TRINITA の英語版解説の表紙

 聖三位一体のベネディクト会神父らのこの修道院は、1011年にクリュニーで修行したロンゴバルド出身でサレルノの貴族であるアルフェリオによって設立されました。修道院長ピエトロのもとで繁栄していった会衆の中心であったオルド・カヴェンシスのおかげで、イタリア南部全体において、独自の精神的影響力をもつとともに、一時的に大きな影響力をもつ修道院となりました。

  ※注)クリュニーとは
   クリュニー (Cluny)は、フランス、ブルゴーニュ=フランシュ=コンテ
   地域圏ソーヌ=エ=ロワール県のコミューン。クリュニー修道院の所
   在地として知られる。

  ※注)クリュニー修道院とは
  正式名称はサン=ピエール・エ・サン=ポール・ド・クリュニー修道院。
  フランス語:Abbaye de Saint-Pierre et Saint-Paul de Cluny)は、当時
  のブルグント王国内で現在のフランス・ブルゴーニュ地方のソーヌ=エ
  =ロワール県・クリュニーに909年9月11日(910年とする説もある)、アキ
  テーヌ公ギヨーム1世により創建されフランス革命まで存続したベネディ
  クト会修道院である。




聖三位一体のベネディクト会修道院のファザード
Source:Wikimedia Commons
CC BY-SA 4.0, Link


聖三位一体のベネディクト会修道院。後ろの方に修道僧が毎日生活する
部屋が山奥まで続いていることがわかります。

Source:Wikimedia Commons
CC BY-SA 4.0, Link


概要:

 聖三位一体ベネディクト会修道院(ABBAZIA BENEDETTINA DELLA SS.TRINITA)は創建後、ただちに教皇により認可されました。初代院長ベルノーは修道生活立て直しのため「聖ベネディクト会則」の遵守を定めました。

 これが、その後、修道会での僧侶の生活の一切の根本となる重要な戒律となりました。クリュニー修道院は、中世にクリュニー改革とよばれる修道会改革運動の中心となり、最盛期には管轄下におく修道院1200、修道士2万を数えました。またその典礼の壮麗なことでも知られました。

 927年から1156年がその最盛期にあたり、5人のきわめて高名で影響力のある修道院長を輩出しました。その最後にあたるペトルス・ヴェネラビリスはクレルヴォーのベルナルドゥスからその修道院の華美を非難されました。このころからクリュニーの凋落が始まってゆきます。すなわち、簡素で素朴な自給自足的生活を重んじるシトー会系の修道士などから批判を受けることになったのです。


南イタリア・カヴァのABBAZIA BENEDETTINA DELLA SS.TRINITAの平面図
出典:ABBAZIA BENEDETTINA DELLA SS.TRINITAの公式Web

 クリュニー修道院の聖堂は3期に渡って建築されました。第1期の"クリュニーI"と呼ばれる初代の建物は、初代院長ベルノーの指揮の元に915年から927年に掛けて建設されたと見られる小規模な聖堂でした。

 第2期の"クリュニーII"と呼ばれる建築は、恐らくその権勢に相応しいものが要求されたと見られ、981年から1040年に掛けてクリュニーIの横に建設されました。さらにそのすぐ後の1088年から1130年に掛け、恐らくクリュニーIを取り壊して、"クリュニーIII"と呼ばれる建物が建設されます。

 この建物の拡張は13世紀まで行われ、最終的な聖堂の大きさは入り口から後陣までの長さが約190メートル、高さが約40メートルという巨大なものでした。(ちなみにパリのノートルダム大聖堂は長さが約130メートル)

 この修道院はフランス革命によって破壊され放棄された後に、他の建造物の石材供給源になってしまったため、聖堂南側の翼廊の一部だけが当時の姿を残しているのみです。

 サン・ピエトロ大聖堂(ローマのバチカン共和国にあります)が設立されるまでは、ヨーロッパで最大の宗教建築物でしたが、"クリュニーIII"の面積は10%程度が残っているにすぎません。なお、残された翼廊の一部は国立高等工芸学校(Arts et Métiers ParisTech、旧ENSAM)の校舎として使われています。

 初期の世紀は、聖人たちの栄光によって修道院も栄華を極めました。最初の4人の修道院長は実際に教会によって聖人として認められ、別の8人も列聖されました。


聖三位一体のベネディクト会修道院の教会
Source:Wikimedia Commons
CC BY-SA 4.0, Link


 数世紀(13〜14世紀)の後、修道院は司教の座の階級を得るまでに昇格しましたが、それにもかかわらず、次の世紀の終わりに一部の修道院長らによって採用された宗教的政策によって、修道僧たちがここを去ることを決断させることとなり、修道院の実態・実質は弱体化していきました。

 しかし、危機の時期は、1497年に貸付金の使用を放棄し、修道院の集会をパドヴァの聖ジュスティナ教会-後にカッシネーゼと呼ばれる-に所属させることを好んだオリヴィエロ・カラファ(Oliviero Carafa)の賢明な動きによって解決されました。その時から、修道院長は修道院の修行、研究、司教区の祠祭活動を取り仕切ることとなりました。

 注)聖ジュスティーナ教会(パドヴァ) 以下の写真は聖ジュスティーナ教会(パドヴァ)の外観です。
   ここには、現在でも聖ベネディクトだけでなく妹の聖スコラスティカの礼拝堂があります。


   
Abbey of Santa Giustina in Padua - view from Prato della Valle
Source:Wikimedia  Commons
CC 表示-継承 4.0, リンクによる

 18世紀には、教会とその付属建築物の一部がジョヴァンニ・デル・ガイソの設計にそって拡張され、再構築されましたが、中世の装身具(主たる衣類以外に着たり持ったりする従装具)のほとんどは保存されました。

 数多くの芸術的および文化的至宝、ならびにベネディクト会の神父たちが今日も実践している精神的および文化的考え方を広めることへの取り組みに加えて、カヴァ・デイ・ティッレーニ修道院の複合体は、多くの貴重な写本と「インキュナボリ」を収容するその図書館で有名になり、収蔵する文献(全集)には13〜19世紀の約15,000枚の羊皮紙が含まれています。

  ※インキュナボリ(incunaboli)  Source:Wikipedia
  西欧で作られた最初期の活字印刷物のことであり、15世紀
  (グーテンベルク聖書以降、1500年まで)に活版印刷術を用い
  て印刷されたものを指す(本だけではなく、一枚物(ブロードサ
  イド broadside)も含む)。揺籃印刷本、インクナブラともいう
  (incunabula はラテン語でゆりかごの意味)。


 『Facta et dicta memorabilia』Valerius Maximus 作の一頁。Peter Schöffer (Mainz, 1471)による印刷で、頭文字Uがルブリック(赤題目)され、蔵書印"Bibliotheca Gymnasii Altonani" (Hamburg)が押されています。

 1455年にグーテンベルクによる「グーテンベルク聖書」が出版されてから、およそ半世紀の間に、ヨーロッパ各地の都市(ドイツ、フランス、イギリス、イタリア、ネーデルラントからスウェーデン、スペイン、ポルトガル、コンスタンティノープルなどまで)に活版印刷術が伝わり、約4万版が刊行されたといいます。

 キリスト教関係の本や人文主義者の著作などがあります。中には装飾写本を模して手書きで彩色をほどこしたものもあります。なお、フィレンツェで最も数多く出版されたのは、15世紀末のサヴォナローラの説教でした。

 インキュナブラとされる古書の3分の1は、印刷した事業者、著者、挿絵画家について名前すら書かれていないか、書かれていてもほとんど無名の者によるものでした。今日、印刷者についてはプロクター・ヘーブラー法で判定されています。この方法では印刷活字の"M"をリスト化したヘーブラー表と比較することによって印刷者を判定しまする。また、ページ数、版画の規格などによって、その他の情報が得られることがあります。

 ヨーロッパの歴史ある図書館では、インキュナブラ(あるいはそれ以前の写本)の所蔵数で歴史的価値が判定され、また、古書蒐集家はインキュナブラを何冊持っているかを競うことがあります。

 最初(の図書館の建物)は、聖ベネディクトの戒律の規定に従って、修道士に本を供給する必要性を満たすために、修道院(11世紀)と同時に設立されました。

 修道院図書館の活動は、最初にナポリ王ジョセフ・ボナパルト(1807年)によって、その後サヴォイア公国の王ヴィクター・エマニュアル2世によって施行された宗教的命令による抑圧的な影響を受けてひどく苦しみました。いずれの場合も、修道院はその責任を負うことになりました。

 2回目は、修道院長は国定史跡の管理人として任命され、また、一部の修道僧は、今日も適用される法規定に従い、警備員として留まりました。

 修道士たちは何年もの間、この施設を非常にうまく運営し続け、最終的に州に買収されるまで、図書館の遺産を保存し、さらに増やしてきました。

 カバ・デイ・ティッレーニ複合体の図書館は現在、65の「メンブラマセイ」写本、約100枚の紙の写本、120の「インキュナボリ」を持ち、16世紀から18世紀までのデータ化できるデータが5,000冊以上のあり、全てを合わせるとおよそ72,000枚の紙に印刷された作品があります。

 ※Codices(Codex) Wikipedia
  コデックス(羅:Codex 西:Códice)とは写本の形状の一種で、古代
  末期から中世にかけてつくられた冊子状の写本のことである。冊子
  本、冊子写本などと呼ばれることもある。
  コデックスに対して、巻子本(巻物)をヴォリューム(羅:volumen)あ
  るいはスクロール(scroll)という。
  写本の構造的な研究のことを写本学(Codicology)といい、写本の内
  容に関する研究、特に字体に関する研究のことを総称して古文書学
  (英:Paleography)という。
  コデックスといえばヨーロッパで書かれたものがほとんどであるが、
  マヤ・コデックスやアズテック・コデックスなどアメリカ大陸で16世紀
  頃までにつくられたものもある。コデックスはもともと巻物に代わって
  つくられていたが、やがて印刷本にとって代わられることになる。

 最も有名な典礼の中で、特に注目に値するのは、以下です。
 -9世紀のVisi Gothic Bible
 -11世紀のコーデックスLegum Longobardorum
 -8世紀のIsidoroによる病因学
 -11世紀のBedaによる De Temporibus
 -12世紀のバーリのベネデットによるデ・セプテムシギリス。

 図書館と同じ頃に、大修道院を非常に有名にしたアーカイブ(記録)がありました。それは、修道院自体が、王子(なかでもLongobardsとノーマンの王子)、司教や領主、ならびに個人からの寄付や資財のお陰で非常に短い期間で大きな力を得たとによるものです。

 さまざまな土地の運営、防衛、および報復、ならびに「定期借地権:エンフィトゥシ」として与えられた土地の管理は、驚異的に大量の文書、登録簿、目録、および土地台帳に関する書類を生み出しました。


 カーヴァ修道院が設立される前の文書の存在は、教会や修道院が彼らのアーカイブ(記録)とともに修道院に寄贈されたという事実によって説明されるかもしれません。


ベネディクト修道院4につづく